昭和45年8月20日 朝の御理解 (末永信太郎) №45-106
御理解第二十五節
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
一心と定めい。ね。大きな信心と言うて、初めから大きな信心が出けるはずはない。大きな信心には、大きなおかげは付き物です。しかし、大きなおかげが初めから頂けるとは思えない。ですから、私どもの信心が、いわゆる一段一段、いわゆる一歩一歩大きな信心に向かって進ませて頂くのである。
何十年信心しておるから、大きな信心という意味でもない。一段一段、大きゅうなって行かなければならん。ね。迷い信心でもいかん。大きな信心には、行き詰まりがない、と。ですから、迷うことは、なおさら、さらさら無いことになる。ところが、なら、私どもが今も申しますように、初めから大きな信心はない。ね。ただ、行き詰まらないということが、大きな信心であり、それが、野放図であるという意味ではない。
ね、ですから、段々小さい信心から大きな信心へと一歩一歩、大きくならせて頂くその過程において、やはり、そこには節があり、いわゆる、または壁と言うてもよかろう。ね。迷い信心ではいかんと仰るが、本当に迷わなければおられないような壁にぶつかることもあろう。
ですから、その、迷うたからと言うて、節があったからと言うて、その節を乗り越えようとせずに、ただ、そこで足踏み状態であったり、迷うようなことがあったからと言うて、周り右をして迷うてしまうというような、信心を落としてしまうといったようなことでは、いよいよ大きな信心を目当てにしておる、いわゆる、大きなおかげを目当てに、大きなおかげが頂けるとは思われない。
なら、そこで、ここでいよいよ分からせて頂かなければならないこと、または、そこのところを修行とさせて頂かなければならないことになる訳であります。大きなことをお願いさえすれば、大きな信心ということではない、ということを、一つよく分かってもらいたい。
そこで私どもが一段一段進んで行くその過程において、ね、迷わねばならぬような、または、いわゆる行き詰まるですね、そこに壁を感ずるような、その迷わねばならないような時に迷わずに、前に進むということ。もう、ここでパッタリ行き詰まったと思うような時にです、ね、いわゆる渾身の力を持って、その、そこを押し突き破って行くということである。
そこんとこをなされない限り、大きな信心は望めない。ね。何十年経っておっても、なるほどおかげは受けてあるけれども、いわゆる同じようなところをぐるぐる回ってるおる人がある。これでは、大きな信心の中をぐるぐる回っておるようなものであって、その外面的なところに、ね、出ることにならない。ね。
いわゆる、無尽蔵とか限りないおかげを頂くということは、私はやはり大きな信心を頂かなければ、無尽蔵なおかげは頂けんと思うです、限りないおかげは頂けんと思うです。いつも限りがある。それが、一歩一歩大きな信心に進ませてもらい、進んで行くからには、やはりそこへ前進しとるのですから、ね、例えば、よく行き詰まりましたとか、迷いが起こったと言うけども、迷いが起こったということはね、もう、それだけ信心が、そこまでは進んだわけなんです。
行き詰まったというのは、もう、そこまで信心が進んだのである。だから、そこのところを付き抜けなければ、いつまで経っても、その範囲以内しかおかげを頂けないことが分かるです。ね。そこんところをね、やはり信心の道はやはり険しい。いわゆる、一生が修行だと言われる所以です。ただ、同じ所でぐるぐる苦労しておったんでは、その修行もやっぱり、一段と赤ぬけした、言うなら人が出けんところでも、それを有り難く頂き抜かせて頂けれるというおかげを頂くから、おかげもまた、大きゅうなって行くんでしょうね。
そこで、その、どういうことかと言うと、例えば、昨夜の前夜祭の後の私の挨拶の中にも申しましたように、ね。神様はいつもです、ね、よりおかげを下さろうとしておる。為には、より力を求め給う。より、大きなおかげの受け物を作らせようとなさる。これは、もう絶えずそうである。ね。よりおかげを、ね、よりおかげを頂かせて下さることのためなのだ、と。ね。
いよいよ大きな信心へ、大きな信心へ、大きなおかげへ、大きなおかげへと進んで行くということは、そういうことなん。ね。そこで私どもがね、それを知っとかな、呑み込んでおかなければならん。ね。呑み込むということは、ね、そういう一つの事訳を知っておかなければならん。神様は、よりおかげを下さろうとするから、現在の例えば苦しいこととか、悩みとか、信心しよっとにどうしてこういう苦しいことが、ではなくて。ね。よりおかげを下さろうとするから、修行させて下さるんだ。
だから、なるほど苦しい、または辛いけれどもです。ね。そういう、一つの呑みこみをしておりますから、ね、また、心の中に楽しいものがある。ここを乗り越えた暁のことを思うからである。ここの修行、そこのところをですね、一つもそういう受け方が出けんで、まあ、言うならしだごだでそこんところを通り抜けただけだから、おかげがいつもしだごだなん。そこをスキッと受けたい。
そん、台風があって以来、毎日久富繁雄さんのお届けを聞かせて頂いておるが、あちらは大きな麦わら家ですかね、非常に大きなお家です。で、今年は屋根換えの年である。屋根換えというのは、私、一遍にきれいにしてしまうのだと思うたら、これ四面なら四面にこうあると、それを一面ずつこうして行くんだそうですね、一年か二年おきぐらいに。
それで、この、西の方の面だけを今年はなさるつもりで、麦わらもそんだけ用意してある、と。ね。ところが、あの、台風で西の方から入った、ボーンと風がその西側の屋根をほいでしもうた。そのほいだ風が、なお勢いを増して、東の方に抜けて出た時には、もう、この屋根だけではなくてね、こう、竹でこう組んである、その竹まで一緒に持って行くほどの、ひどいことであった。ね。
私達がね、信心させて頂いておって、本当にいわば目の前が真っ黒うなるようなことが起きてくるんですばいね、これは信心しよっても、しよらなくても。けれども、信心しよって違うことはですね、もう、よくよく心を落ち着けて見てごらん、おかげだなあ、と思うことの節々を感じます、どういうことが起きても。
これは、もう信心しておりゃ、もう絶対。それが、神様のご都合、神様のご神意であるからこそであり、いわば、なるほど神様がよりおかげを下さろうとする働きだなと思わなければおられないようなです、そこんところをですね、あの、はあ、信心しよって、どうしてこんなことが起きたじゃろうかばっかりでおると、もう、おろおろしてますから、そのおかげのところを見落とすのです。ね。
あれほど吹いて、あれほど降っておった雨がね、あそこ、そこの屋根をほいで抜けて、それっきりお湿りがなかったんです。あれで、もうお湿りがあったら、大変なことだった。一時は、それこそ雨風であった。ね。なら、そのことも、ああ、おかげだなと、こう、まあ、感じておられる。
ね、もちろん明くる日、こう、明くる晩もお湿りがありましたけれども、その時には、もうちゃんと、それに対する処置がしてある。翌日から屋根(ふき?)さんが来ておられた。まだ、明日までもかかる。二人で見えてかかると言うのですから、(だいたい押して?)知りません。ずいぶん大きなお家であることが分かるです、大きな屋根です。
ところが、第一その、一番困られることは、どういうことかと言うとね。その、片一方の東側の屋根は、去年ふかれたばっかりのことですから、全然、麦わらのその、十歩二十歩のことで、何百歩と言うんだそうですからね。今ごろお百姓さん、麦わらなんか取りません。今年のごと、ありゃ、もうお湿りばっかりですから、みんな腐らかせてしもうた。
その中に、まあ、繁雄さんのところでは、屋根を換えんならんからと言うて、まあ、その天気を潜るようにしておかげを受けた麦わらが、まあ、その一面をふくだけは取ってあった。ね。ところが、その、昨日までも話を聞かせて頂きますと、今年取らせて頂いた、私の方の麦わらよりも、良い麦わらがどんどん集まって来たっちゅうんです。(屋吹きさん?)が、だからお宅んとは、もう、足らん時、最後に使おうち言わっしゃる。明くる朝参って来てから、(やまか?)さんに、こんな風で麦わらのどっか育つ所はなかろうかと言うてされたら、それは、私が知ったとこんあるけん、話あげるちゅうことになった。もと(やねふき?)さんをしござった。ですから、前ん年からとってあった、その麦わらがあった。
あれは、古いんとがよか( )前の年の分。もう、それこそ、(屋根ふきさんが)たまがりなさるごと、ここに見えとる屋根ふきさんがたまがりなさるごたる、立派なそれこそすぐいたような藁であった。あちらから五十葉、こちらから三十葉という風に集まって、おかげでですね、いわゆる十分麦わらが揃うてしもうたち。ね。ですからね、本当にその、そういう例えば、屋根を吹くようなことがあった時にです、(その後の?)私は受け方だと思うです。ね。
だから、私達がこう申しておりますがね、その受け方と言うても、なら、よくよく日頃の信心をね、ジッと自分の心の中にいわゆる呑み込んでおく。ね。神様がよりおかげを下さろうとすることの為なのだ、ということ。ね。それを呑み込んどって、これをジッと見てみんの、その周辺を。はあ、やっぱおかげだなあ、と。それっきりお湿りがないちゅうことだけでも、これは神様のご都合だなということが、必ずあるて、信心させて頂いて。これだけは絶対。
信心しとるけん、屋根を吹かんちゅうことは絶対なか。大和さんところ辺りもそうだった。ね。畳屋さんですから、大きな倉庫がありましたけれども、それはもう、吹き倒してしもうた。ね。すぐお届けをさせて頂いたら、まあ、新しく建て直せって、しかも2階建てで建て直せということであった。
それで、まあ、業者の方にすぐしたら、はあ、あなたのところは腑がよかですばい、今、てっこみが一番下げとるとこでした。去年した人は、まあ、例えばその三万円でしたっちゅうのが、今年は、今は二万円で出来るち言うた。ほれは、まあ、あなた方一番よか時、いわば、よか風じゃったちゅう訳なんです。ね。吹き倒すぐらいじゃから、( )来とることだけは間違いない。
というようにですね、もう、倒れてもです、そこにおかげと感じなければおられないようなことが、必ずあるて、信心させて頂いとりゃ。ね、これはまあ、余談ですけれどもね。例えば、久留米の野口さんところ辺りなんかは、もう、だいたいあそこは、良い住宅街です。中ではもう、あそこの家が一番古くて、まあ、よろよろしたような家です。( )大きな家ですけれど、倒れるなら、あそこが一番に倒れるじゃろうちゅうような感じなんです。塀なんかも、もう傾いとる。
ところがね、その近所の、まあ、あそこは(にっかごむ?)の重役さんちゅう人がおられる町だそうですが。立派なお家ですけども、その(そでかた?)というものは、もう、それこそ目も当てられない。塀はもう、みんな、こう壊れてしまって。ところが、倒れかかっとるあそこの塀が壊れていなかったちゅうんです。ね。それがね、もう、この木はもう、本当ちっと邪魔になるけんで切ろうかちゅうごたる、その木があった時もある。自分方の木じゃなかもんだから、そんな訳に行かなかったところが、その木がですね、ちょうど真中から折れてね、その折れたところが、ちょうど塀をこうやって支えるところになっとった。ね。
久留米の佐田さんところなんかは、親子5人で里に歩いておられた、あの日は。それで、おじいちゃんとおばあちゃんとが、もう大変なその心配だったでしょうね、日田の方へ行っておられたんですけれど。明くる日、電話かけたら、おじいちゃんでん、おばあちゃんでん、とうとうその風を全然覚えんな、寝てしもうちゃる。さあ、起きて見たら、庭の木が全部倒れておった、と。
ところが、表にあった大きな木が倒れて、いつも、最近買われた新車ですが、新車を置かれるところに倒れた。本当に、まあ、有り難いことだ。あれがおじいちゃんやら、おばあちゃんやらが覚えて下さったら、それこそ夜通し、どういう恐ろしい、まあ、若い者がおらんのにと言うて、不平不足も言われたことであろうかと思うくらい。そこで、次のあの、( )のトラックをそこにだいたい置かんならんのに、もう、よかよかで、その日だけは表に置いちゃった。というようにですね、それはもう、その後のことでも、それはもう、本当に(状況に及ばんです?)。大きな灯篭がありますが、灯篭が三つになって折れとった。それがね、植木の上には落ちんな、三つの中から別々の違うところへですね、植木のなか所、なか所へ置いたように落ちとったと、驚きをしておられます。ね。
例えば、なら小野先生がお礼に出てみえてから、あそこは駐車場が百メートルばかり先に吹き飛んどった。すぐ隣にもやっぱ同じような駐車場があるが、そこんとは、ぶっちゃげとったから、もう自動車まで傷が入った。ところが、どういうことか分からんけどですね、スポーンとこう、浮いたようにしてから飛んで行った。だから、横にはなっとったけれども、百メートルも先じゃったけど、また起こしてジッと持って来りゃあ据えられるちゅうようなおかげであった。自動車も(そえて?)なかった。
というようにですね、信心しておればおかげを受けるです、例えばそういうことであっても。ね。おかげと思わなければおられない事実が、そこにある。ね。そこんところを、その、私どもが思うておかんとです、その、呑み込んでおかんとね。必ずです、どういうことが、その腹の立つことが起こっても、情けないことがあっても。ね。もう、神様のおかげに絶対なるです。
ね、だから、そこんところをですね、私は今日申します。それを、これは神様のご都合に違いはない、神様のご神意だと、それを頂かせて頂く信心です。そういう信心を、その都度都度にさせて頂くことによって、その壁を突き破ることになり、そこの節を乗り越えて行くことになる。
そうして、信心というものは育って行くのであり、大きゅうなって行くのであるということ。ね。だから、そこを、災難は災難、難儀を難儀として頂いたんじゃ、いつまでも、その限りである。そういう受け方。ね。私、今の台風以来、もう本当に、お詫びにお詫びさせて頂くばかりであった。いよいよ年に一回の祈願祭が仕えられる。ね。そこで私は思うた。はあ、こういう、本当にしら真剣お詫びしなければならないような事態がこうして起きてくるということはです、ね、もう、すっきり詫びて詫びて、詫び抜かせて頂いて、詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから、その親心にすがって、ね、いわば、祈願祭に突入出来るんだ、と。詫びることによって許される。許されたその気持ちで、おかげを頂くんだ、と。ね。
昨日は私、一日、昨日の朝の御理解の中に、羞恥心、恥ずかしい、と。私はあんな御理解は初めて頂いた。羞恥心がこんなに神様と交流するもんかということ。恥ずかしいと思う心。いわば、ウブな心なのですよ。さあ、昨日は一日恥ずかしいことばっかり。私は、昨日夕べは秋永先生言うんですよ。私は昨日、あんたは朝御祈念におるかと思うたら、おらじゃったけん、私はもう、こげん恥ずかしい思いをした事なかよち私が。もう、恥ずかしい恥ずかしい。
あっ、信徒会長さんなっち、例えば人から聞かれどんするなら、もう本当の、ああして御大祭に一人で帰ってしもうちからち。まあ、帰らなきゃならん理由もあったらしいですけれども。なら、そんなことすらが、昨日、私は、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてという気持ちだった。ね。神様の前に、または人の前に。
もう、昨日は本当に恥ずかしい思いをすることばかり。もう恥ずかしい、みんな恥ずかしい思いをする材料であった。言うなら、表も上げられないというような。そういうね、ところが、そのウブな心がね、神様と交流する。詫びて詫び抜かせて頂くそのお詫びが、神様に交流するように。ね。
ですから、私どもの信心がね、大きな信心。そして、例えば昨夜の前夜祭に頂きますことはです、ね。鼓をこう打つ人が、こう、構え、鼓を構えて、今まさにこう、うとうとする姿勢をとっておるところを頂いた。はあ、あの台風からこの方、それこそ詫びねばならない様々な事態。お詫びしてもしても、お詫びが足りないほどしの、言うなら、事情とか事柄といったようなことをです、詫び抜かせて頂く修行。
昨日は、本当に恥ずかしい思いをする、ね、その、まあ、修行。言うならば、あの、鼓というのは、ね、ちどりがけになってるでしょう、こういう風に。ちどりがけというのは、右と願っても左、左と願っても、自分の思うようにならない。そこんところに詫びがあり、そこんところに恥ずかしいことだなあ、というその心がね、いわゆる、ちどりがけになっとるように、ギュッとこう締め上げられたようなもの、幾日間か。
その締め上げられて、いよいよ、今日の二十日の祈願祭をです、祈願祭らしい祈願祭。良い音色が出ることのためのそれであったということが、わかるじゃないですか。ですから、締め上げられとる過程をです、私が、どうして信心しよってと思うたり、ね。または、お詫びをすることにすら気が付かなかったりしたんでは、これは締め上げられませんから。ね。打ったところで、鼓はぼとぼと言うごたる音しか出ません。
ね、それこそ、カンカン言うような、いわばあの音色が出るのは、やはりちどりがけの上から、また締め上げられて、そして、良い音色が出る。だから、夕べ私が申しますように、よりおかげを下さることのためなのだと、その全てが。より、力を与えて下さろうとすることのためなのだ、ということになりますから、そのこと事態はです、ね、お礼を申し上げさせて頂くことなんだ、と。
信心というのは、そのようにして成長して行く。そのようにして、段々大きくなって行く。ね。だから、信心、いわゆる、なるほど大きな信心とは、行き詰まりがないと言われております。もう、私はそうだと思いますけれども、私どもは信心、その大きな信心、より大きな信心を、より大きなおかげを頂くことのために、その過程においてです、それこそ行き詰まるほどしのこと。
もう、壁に行き詰まったような感じのこともありますけれども、それをね、私は前に向かって突き進んで行くということ。ね。なら、そういう時に、自分の信心の周辺をこう見てみると、いわゆる、久富繁雄さんの例を取りましたようにです、おかげと思わなければ、神様の働きと思わなければおられないことが、そこにはちゃんとあるって。
それを、おろおろしておると、それに気がつかんで、家だけどうしてこげなことになったじゃろうか、ということにすらなる訳なんです。ね。だから、なら、そういう受け方でもですよ、なるほど、屋根換えも出来るだろう。まあ、言うならば、(向こうから?)相談も出来るかも、それは分からん。けれども、それでは大きゅうならんことが分かるでしょう。ね。
それをおかげと頂かせて頂けれるところにね、私は信心が、おかげ。いわゆる、ね、いわゆる無限のおかげに繋がって行くわけなんです。ね。いつかも頂いたように、いわゆる、横8ですよ。それこそ、腹がよじえれるような、こうね、8の字、こう。捩れるような時でもです、そこんところが、ご神意として分からせてもろうて、有り難いと、または元気な心でそこを抜けきらせて頂く時に、いわゆる、無限大のおかげに繋がるということ。ね。
もう、17~18年前だったでしょうかね。私はこの、このもう、私のは、いわゆる梅鉢ですから、これに輪がある、本当は。梅の中に、外にまひとつ輪がある。ところが、以来、この輪を私とらせて頂いて、私の、だから着る紋付は、全部この輪がない。ね。こうやって、輪があったんではね、もう、それだけの大きさでしょうが、その枠内でしょうが。
この輪が取れるからこそ、限りなく大きくなって行けれるのですよ。それを突き破って行くのです、枠を。ね。それを、いわば突き破る勇気を持たない。ね。卵からヒヨコが(貝?)を割る時には、中から突きほがしてカラを破っていくと言う。ね。そのカラを破らんで、ジーッとしとるところに、中が腐ってしまうのです。ね。だから、その、元気が出さなきゃいかんけども、それが(しいら?)元気じゃない、神様のおかげと思わなければおられない事実をそこに見るから、元気が出るのである。ね。
小屋は吹き飛んだけれども、とにかく隣のと自分のとの具合ば見てみるとです、片一方んとは、小屋はぶっちゃげとった、飛んではおらなかった。けれども、自動車までそげとった。自分かたの小屋は、百メートルも飛んでおったけれども、ね、スポーッとこう、自動車の方を抜けるようにしてから、自動車はぜんぜん無傷であった。同じ吹き飛ばされるでも、そう違う。ね。
佐田さん、大和さん、久富さんのそういう例を、ね。もう、信心しとればおかげということをね、どういう難儀な中にあっても、はあ、神様のご都合だなと思えれるところをね、私どもは一つ呑みこんどかにゃいけんです。だから、元気が出るのです。だから、このことは困ったことであっても、だから、このことにはお礼を申し上げなければおられない事になるのです。ね。
そのようにしてね、私は信心は、大きく成長して行くのである。ね。それを繰り返し繰り返し、おかげを頂いて行くところにです、なるほど、私どもの行く手には怖いこともなからなければ、困ったというようなことも、もう絶対にないのだ、と。あるものは、神愛だけなのだと分かり、いわゆる、込ませて頂くことが出来る。ね。怖いと思うておったのは、度胸を作らせて下さる神様のご神意であった。ね。
というようにです、ね、必ずそういう体験を積ませて頂いて行かない限り、私、信心は大きくならないと思う。それで、初めて大きな信心を願うということは、そういう、現在、自分の、なら手元のところ。現在の持っておる難儀なところ。そのところをです、おかげをおかげと一つ分からせて頂けれる信心からね、信心が、まあ、どのようなことが起こっても、迷わんで済むほどしのおかげ。
いわゆる、限りない大きなおかげ。行き詰まりのない信心が、そこから出けて来るわけです。信心は、大きな信心がよい、迷い信心ではいかん、一心と定めい。ね。一心と定めいということを、今日私は、ね、それを呑み込ませて頂くとかなければ、一心が定まらない。
神様は、信心させて頂いとれば、必ずそういう働きがあるんだと、一心と心の中に決め込んどかなければならない。だから、どのような時でも、その周辺を見る一つのゆとりがある。はあ、これは、家はこうやって吹きほいだけれども、しかし、おかげと言わなければおられんじゃないかと、んなら、家内にでも子供達にでも言えれる。ね。夕べそれを聞かせてね、また、もっと大変、詳しくそのことを聞かせて頂いてです、繁雄さんに申しました。
いくら信心のない嫁御達でん、今度の屋根ばほいだつだけは、やっぱおかげち思うとろうのち、はあ、もう私がずうっと言いますけん、本当やっぱお父さん、おかげじゃったのち言うちから、言うてくれますと、こう言う。というほどしの事がです、そこには必ず用意してある、あるって必ず。ね。そこんところのおかげを頂いてもらいたいですね。どうぞ。